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SAGA HIRAKAWAYA
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佐嘉平川屋について
2021.11.02
こんにちは。佐嘉平川屋代表の平川です。
佐嘉平川屋の歴史 “三代目編”として、今回は私が入社した時までの話をお伝えしたいと思います。
二代目となる父の代の物語はこちら
祖父の代(1950年〜1968年)「佐嘉平川屋 はじまりの物語」
父の代(1968年〜2006年) 第一話 工場を新設し法人化した、先代の大きな決断
父の代(1968年〜2006年) 第二話 激しい価格競争の渦中で生み出された「温泉とうふ」
父の代(1968年〜2006年) 第三話 お客様のご要望により実現した佐嘉平川屋の通信販売
豆腐屋あるあるですが、私は子供の頃から豆腐屋にだけはならないと思っていたので、大学では豆腐とは全く関係のない土木を先行し、卒業後は、運輸省(今の国土交通省)に入省しました。
最初は新潟の第一港湾建設局に配属となり、1年半ほど新潟みなとトンネルの耐震設計、意匠設計などを担当しました。その後、霞ヶ関の本省に移動、港湾局計画課企画調査室というところ配属となりました。港湾EDIという港の情報化、港湾施設の投資効果算定手法の策定、全国の港湾調査費の配分などを担当。これがまた本当に激務で、まず終電で帰れるレベルではなく、毎日、早朝2〜4時ぐらいまで働いていました。もともとただでさえ業務量が多い上に、港湾局として非常に重要な位置付けの新規事業的なものもいくつもあって、おまけに鬼上司笑。ここで2年ちょっと猛烈に鍛えられました。1ヶ月の行革PT(行政改革プロジェクトチーム)を経て、航空局監理部航空事業課に移動。羽田空港の発着枠の配分や運送約款の改定に携わったのち、当時の起業ブームに感化されて、配属から1年弱で、起業しようと運輸省を退職しました。
何にしても、全く業務内容は違うとはいえ、運輸省で物事の考え方、仕事の向き合い方など多くのことを学び、豆腐屋の経営に役に立ったことは間違いありません。
その後、起業するまでの一時的な腰掛けのつもりで、2000年8月下旬に実家の豆腐屋に入りました。そもそも起業すると言っても人の雇い方さえ分からない状態だったので、基本的なイロハを習得したら、とっととやめようと思っていました。
ただ、実際に入ってみると、衝撃的な状況でした。
もともと価格競争が激しかったところに、排水処理の関係で工場移転してからの固定費の増加、1997年の主要取引先の倒産で、ここでは書けないくらい財務的に大変な状況になっていました。その大変な状況を乗り切るのに、私も借り入れの保証人にならざるを得ず、そこから本気で立て直しに取り組むことになります。
続きはそのうち。