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SAGA HIRAKAWAYA

佐嘉平川屋について

2021.05.18

豆腐屋の跡取りということ – 次の世代へお豆腐文化を繋ぐために –

こんにちは。佐嘉平川屋、代表の平川です。

しっとりとした空気に緑の香りが漂うこの頃、半袖姿の方も目立つようになってきました。皆様いかがお過ごしですか。

今回は「豆腐屋の跡取りということ」と題して、お豆腐屋の家に生まれた私自身の物語をお伝えしたいと思います。

幼少時代、なりたくないと思っていた豆腐屋

豆腐屋さんの推移を見てみると、最も多かったのは昭和35年で50,000軒を超えていたと言われています。現在のコンビニ並みですね。現在は約10分の1の5,000−6,000軒。激減しているので新規参入は多くはなく、必然的に今ある豆腐屋さんは、その多くが2代目や3代目などで家業を継いだ人たちかと思います。

そういう豆腐屋さんを継いだ人たちと話していると、まず間違いなく激しく共感するのが、「子供のころ豆腐屋だけはなりたくなかった」と思っていたこと。子供の頃から「豆腐屋になりたいんだ!」と思っていた人に出会ったことがありません笑。

豆腐屋家族の日常

皆さんのイメージ通り、私が子供の頃は豆腐屋は朝が早くて、家族揃って朝食を食べることはまずありませんでした。両親は共働きでいつも白い長靴に耐水の白いエプロン。たまの休みにお出かけしても「豆漬けせんといかん(豆腐を作る前日に大豆を水に浸すこと)。」といって強制的に遅くなる前に家に帰ることになる。遠出もできない、宿泊とかもとてもとても。人手が足りないと子供も手伝うことになる。学校では何かにつけて豆腐屋と言われる(子供心にこれが一番いやだったりする)。

もちろん誰もがというわけではないと思いますが、少なからず同様の経験をしているようです。そういう豆腐屋ならではの生活をしていると、スーツを着て新聞を読むお父さんがいて、朝ごはんを準備するお母さんがいて、学校にいく準備をした子供達がいて、家族で食卓を囲んで朝食を取る一般的な家庭みたいなものにもの凄く憧れるんですよね。私もその一人でした。

豆腐屋の三代目として

私の父などは、中学・高校の頃から祖父に労働力として当てにされていたらしく、毎朝、舗装もされてない道を自転車に乗って隣町までお豆腐を配達に行っていたようです。とにかくそういう生活から逃げたくて高校卒業と同時に大阪に行ったと聞きました。祖父の病気をきっかけに図らずして佐賀に戻り豆腐屋になってしまったようですが、自分が望んでなったわけでもなかったので、息子の私には子供のころから豆腐屋にはならなくていいと言っていました。

なりたくもないし、ならなくていいと言われれば、なる必然性もなく、大学ではまちづくりをやりたくて土木を先行し、国家公務員になりました。その後父と同じく図らずして豆腐屋になり、現在に至るわけです。

実際に豆腐屋になってからは、景色が違って見えるようになりました。

国家公務員の時は、猛烈に忙しくかつ相当無理をして頑張っていたのですが、非難されることはあっても感謝された記憶はほとんどありません。実際やっていることが本当に世の中のためになっているのかと疑問に思えることも多くて、虚しさを感じることが多々ありました。

しかしながら、豆腐屋になってからは、お客様に迷惑をおかけするようなことがあれば当然叱られますが、ご満足いただけるものを提供できればシンプルに喜んでもらえますし感謝してもらえます。子供の頃は豆腐屋が決して好きではなかったけれど、自分たちが作ったものを喜んでもらえる、感謝してもらえるというのは、実はすごく幸せなことなんじゃないかと思えるようになりました。

“豆腐屋”が一つの職業として目指すものになる、そんな環境を作っていくこと

客観的に見て、社会における豆腐屋の位置付けって決して高くはないと思います。それを実感したのがベストセラーになった漫画「君たちはどう生きるか」。戦前のお話ですが、主人公のお友達が豆腐屋さんで、貧しい職業の代名詞のように描かれていたんですよね。豆腐屋の跡取りたちが、将来豆腐屋になりたくないと思うのは、そういうイメージもあると思います。

これからも多様な豆腐文化が受け継がれていくためには、もっと豆腐屋のイメージを上げていかないといけないと思いますし、かっこいいと思えるようにしていかないといけない。豆腐屋の跡取りが継ぎたいと思えるような、そして跡取りだけでなく一つの職業として豆腐屋で働きたいと思えるような、そんな環境を作っていくことが、私たちの責務だと思っています。そのためにも、まずは私たちが新しい豆腐屋の可能性を示すべく、これからも新しいチャレンジに積極的に取り組んでいきたいと思っています。

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